鹿沼市は県都、宇都宮の西約20キロ日光の南30キロ栃木県のやや中央に位置しています。有史以前の謎を秘めて市内に散在する幾多の遺跡、遺物が発掘され古くから人々の生活が営まれていたことが伺われます。今回は豊臣秀吉が日本統一を目前にして小田原の北条氏を攻めた時の鹿沼から話をすすめることにします。
壬生氏「現壬生町から起きた豪族」によって鹿沼城が築かれたのは天文元年「千五百三二年」であります、しかし天正十八年秀吉の小田原攻めのおりは北条方に味方していたため壬生義雄は、出陣し酒匂川において三十九歳で陣没します。壬生氏は秀吉の意に叶わず取り潰しとなり、壬生城は前田利家の軍に開けわたされます。鹿沼城はこれより早く四月十七日に宇都宮勢によって攻められ落城したと伝えられています。義雄の遺品は壬生町の雄琴神社の神宝としていまに伝えられています。鹿沼には鹿沼城最後の城主であったことで、しるしの石塔が西鹿沼 雄山寺にあります。殉死 若林蔵人 外家臣の塚もそこにあります。
壬生氏は五代 百三十年で滅亡家臣の多くが帰農しました。その後の鹿沼は結城氏の支配下に置かれました。